トップバリュ ストロングチューハイ ライム

ある晩、アパートでひとり酔いつぶれて玄関の鍵をかけ忘れて眠っていたら、同じ階に住むアルコール依存症からアルコール性認知症にまでなってしまった青年が部屋に侵入してきた。というお話です。

パンクロック好きの青年

あれは何年前のことでしょうか。当時私が住んでいた東京都S区の風呂なしアパート(6畳。トイレと流し台あり)に、新しい入居者がやって来ました。

20代半ばくらいに見える、長髪・ひげ面でVivisick というハードコアパンクバンドのTシャツを着ていたその青年とはアパートの外廊下で初めて顔を合わせたのですが、ワイルドな外見とは裏腹に「こんにちは。こんど越して来たEと言います。よろしくお願いします」と礼儀正しく挨拶してくれました。

ところが、入居から1~2年経った頃からE 君の様子がおかしくなってきました。彼とは特に親しくなったわけでもなく、外廊下などで顔を合わせた時に「こんにちは」「こんばんは」と挨拶をするだけの関係だったのですが、なんとなく、彼が発する雰囲気が変わってきたのです。

体重が増え・表情に締まりがなくなり・髪型や服装もややだらしなくなっていました。東京には『カクヤス』という缶ビール1本でも無料で宅配してくれる酒屋があるのですが、そこのバイクが頻繁にアパートを訪れるようになりました。

電線に向けて携帯メールを送信しようとするE君


アパートのイメージ

ある日、私が仕事を終えてアパートに戻ってきた時のことです。部屋は2階だったので外階段を登っていくと、階段と2階の外廊下が直角につながる場所に、E君が携帯電話を手にたたずんでいました。

「こんにちは」と挨拶をして通りすぎようとすると、「すみません。携帯電話の使い方を教えてください」と呼び止められました。断る理由もないので、彼が握っていたガラケーの画面を覗きこみ、「どんな操作をしたいのですか?」とたずねると、メールを送信したいとのこと。

どこへ送りたいのか、宛先のアドレスは分かるかと再びたずねると、E君は、私たちが立っている場所から数メートル先の空中に張り渡された電線を、黙って指さしました。

私は思わず絶句しました。何と言っていいのかわからないまま黙っていると、E君は携帯電話を電線に向けてかざし、「おかしいな。上手くいかない」とつぶやきながら、何度も何度も携帯のボタンを押し続けました。私は自室へ逃げ帰りました。E君が酒によって狂ってしまったことは明らかでした。

目を覚ましたら トイレにE君がいた

この一件から、何日くらい経った頃だったでしょうか。ある晩、大酒を飲んで酔いつぶれた私は、玄関のドアに鍵をかけるのを忘れたまま眠ってしまいました。そうです。E君ほどではないにせよ、私も立派な酒飲みなのです。

深夜、というかもう早朝の時間帯、私は枕元に人の気配を感じて目を覚ましました。私が住んでいたアパートは風呂なし物件には珍しく、トイレは共同ではなく各部屋に備えつけられていました。私は毎晩、6畳間の押し入れの脇に無理やり作られた狭いトイレの方へ頭を向けて寝ていたのですが、そのドアが開いており、誰かがズボンを降ろして便器に腰をかけているのが見えたのです。すぐにE君だとわかりました。

支離滅裂な言動

「おい。君はそこで何をしているんだ」と声をかけると、排便はせずただ座っていただけらしいE君はズボンを上げながら「はいはい。しかたないなあ」と、まるで子どものわがままに付き合う大人のような口ぶりで言いながらトイレから出てきました。

私はいたって小心な男ですが、これにはさすがに腹を立て、何年かぶりに大きな声を出しました。「お前は、人の部屋で何をしているんだ!」「……うるさいなあ。わかったぞ、お前、中国人だろ」

E君の支離滅裂な答えを聞いて、怒りがさっと冷めていくのを感じました。「お前たちの問題はなあ、酒の飲みすぎだってことなんだよ」さらに意味不明なことを口走るE君。(お前にだけは言われたくない)と思いましたが、現に酔っ払って玄関の鍵をかけ忘れ、こうした事態になっているわけです。困った酒飲み同士の対決です。

20代にしてアルコール性認知症に

しかし、もはやE君が完全に理性を失ってしまっていることは明らかでした。アルコールにより脳が萎縮し、アルコール性認知症(昔はアルコール性痴呆と呼ばれていました)状態となっているのです。そんな彼を目の前にすると、そこに人間がいるという実感が持てず、まるで幽霊を眺めているような気分でした。E君の目も、もはや現実を見てはいなかったのでしょう。

恐怖は感じませんでした。当時の私は毎日のようにジムに通って筋トレに励んでいて、銭湯で格闘家に間違えられたりしていたからです(現在は見る影もありません)。何となれば、酒毒によって骨抜きとなったE君のごとき、つまみ出すのは簡単である。そう思うと、気持ちが落ち着きました。そして、何だか無性に悲しくなってきました。「とにかく、出て行け」とうながすと、「はいはい、わかりましたよ」などと言いながらE君は自室へ戻って行きました。

この時に気づいたのですが、E君の眼球のいわゆる白目の部分は卵の黄身のような色になっていました。肝硬変による黄疸でしょう。こうなってしまうと、肝臓がもう取り返しのつかない状態であることが多いそうです。後日、仕事関係のある男性が同じ黄色い目をしているのを見ましたが、しばらくして亡くなりました。

消えたE君

この事件の後もE君は、ゾンビのような状態で近所を徘徊しているので警察を呼んだり、真冬の外廊下に薄着で倒れていたのを部屋に担ぎ込んだりと、色々とありましたが、いつからか姿を見なくなりました。

初めてE君と会ったあの日、年上の私がヘドモドしているのに、爽やかに挨拶をしてくれた姿が思い出されます。パンクを愛したひとりの青年の魂が滅びるまで、あっという間の出来事でした。